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KIKI歌野

Author:KIKI歌野
物書き(♀)です。アダルト表現を含む物語もありますのでご注意ください。ふと訪れた方々が楽しんでくださればうれしいです。
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コメ欄を閉じていますので、ご意見、ご感想、ご連絡などございましたら、こちらまでお願いいたします。

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KIKI歌野の、たあいないものがたり
小説を書いています。官能を含む恋愛小説、普通の小説をぼちぼち載せていきます。たぶんまあまあ面白いです(つまんなくても暖かい目で見守ってください・・笑)


  NEW!!☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 2012年8月
 直己×香枝の最新作『パーフェクト・ビューティー・オブ・ライフ』アップしました。

 ゴメンナサイ、今回は有料コンテンツですが、(1)のみ無料で試し読みしていた
 だけます。

  皆様から寄せられたご感想はコチラ → ★★

 
 2010年11月
 直己×香枝の第四弾『ラヴァーボーイの受難』アップしました。


   インデックス・作品紹介
  初めてのお方はどうぞ。このブログ内の小説ラインナップが一目でわかります。


  キャラ紹介
  小説のキャラ紹介です。「100の質問!」コーナーもあります。お時間のある方はぜひ


  KIKI歌野の日記
  皆様へのお知らせとかお礼とか言い訳とか、いろいろ書いてあります。


  ツイッター
  キャラなりきりつぶやきもやってますので、小説を気に入ってくださった方なら
  楽しめると思います。ぜひのぞいてくださいね(現在停止中・・・ごめんなさい)



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プリンキピア・マテマティカ (7)

 夕食のメンバーは、七時前に帰宅した倉嶋の母親、倉嶋とヒロアキ(貰った名刺によれば鵜飼博章という名だ)、悠太の四人だった。倉嶋の父親は世間の少なからぬ父親がそうであるように多忙で、あまり家にいないらしい。意外なことにハヤシライスという庶民的なメニューが供された。
 倉嶋より博章に似た顔立ちの母親は、インターナショナル・スクールの教師をしているという。アメリカ人の祖母も若い頃は母国でハイスクールの教師をしていたというから、教職の家系なのかもしれないが、それよりも母親の喋り方が倉嶋とそっくりなことに悠太は感心してしまった。それを指摘すると母娘は顔を見合わせた
「そんなに似ているかしら? 志保子の日本語は綺麗だけど今風ではないわねえ。偉そうだし」
「それは誰のせいなの? 私がボストンにいたとき、日本語を話す相手はほとんどお母さんしかいなかったのよ」
 熱で食欲のない倉嶋はスープしか口にしないが、さっきまで自室で休んでいたせいか、背筋はしっかりと伸びている。キスをしたことなどすっかり忘れたような顔だ。
「だいたい鵜飼の家系はくだけた喋り方が苦手なんだよね。僕もいまだに『俺』って一人称を使いこなせない。英語だともっとカジュアルに話すんだけどなあ。ところで海棠くんは群馬出身だっけ? 高崎?」
「もっと田舎です。高崎までは電車で一時間くらいかかるとこです」
 クラケンと瓜二つの悠太を前にしながら、誰もその話をしないことに悠太は気づいていた。倉嶋の父方の血縁だというクラケンは、倉嶋の母親や博章と直接の血のつながりはないとはいえ、もちろん互いに良く知っていただろう。その話題に触れないよう、倉嶋が事前に言い含めたのかもしれない。
 お代りを何度も勧められ、倉嶋の手製のプリンを二個も食べ、悠太は久しぶりに夕食の満腹感を味わった。
「次回のCPMにもぜひおいで」
 博章は眼を細めて言った。
「君は向いていると思う。よかったら数論の本を何冊か持っていくといい。ここにある本の半分以上は僕のだから。うちが狭いので置いてもらってるんだけどね」
「ありがとうございます」
 悠太は尊敬をこめて青年の顔を見つめた。
 しばらく横になって休むと倉嶋に言われて階下に降りたとき、混乱していた悠太の頭と心を救ってくれたのが博章だった。夕食までの間、博章はフェルマーの最終定理のn=3の証明を果たしたレオンハルト・オイラーの「美しく魅惑的なオイラーの公式」についてじっくり説明してくれたのだ。微積分、三角関数や指数関数、複素数など複合的知識が必須で、到底ついていけない部分もあったが興味深く、何よりもありがたかった。

 夜九時前、三冊の本を貸し与えられ倉嶋家を辞去する悠太を、倉嶋は門まで送ってくれた。四月の夜はまだ冷え込み、倉嶋は身をすくめて両腕を抱いていた。
「じゃ、また月曜日に」
「倉嶋」
 悠太はパーカーのポケットに手を突っ込み、倉嶋のセーターの腕から顔まで視線を上げた。
「さっきは、どうして?」
「え?」
「その、俺がクラケンに似てなければ・・・しなかっただろ? いや、したのは俺だけど、何か誘導されたような気がした」
 生々しい話題をあえて口に出したのは、来週以降も電車やクラスで顔を合わせる彼女の心を、薄氷を踏むような思いで探りたくないからだ。悠太は口重だが、腹さえ据われば率直な本音を言うのをためらわない。倉嶋はじりじりするほど長い時間黙りこくった後、「わからないわ」と小さな声で言った。
「もしあなたが正しいとすれば、私は自分の痛みを軽減するためにあなたを利用したということになる」
 悠太は礼儀上の否定はせず、黙っていた。
「でも正直に言うと・・・私には情けないほどわからないの。どこまでが好意でどこからが別のものなのか。なぜなら-----」
 倉嶋は数学の難問と格闘でもしているかのように眉をひそめている。
「対象を健二に限らなくても、私は今まで誰かに恋愛感情を抱いたことが一度もないからよ。子供の頃から私を夢中にさせたのは人間ではなく、いつも数の世界に属するものだったわ。ヒロさんに言わせれば、私はPEAホルモンの分泌異常か、ただの変人らしいけど」
 悠太は唇で笑みを形作ったが、針で刺されたように胸の真ん中が痛んでいた。
「俺はたぶん・・」
 ほとんど自虐行為だと呆れながら、倉嶋の眼と眼の間を見つめて告白した。
「たぶん、すごく好きになると思う。倉嶋のこと」
「そう」
 倉嶋は動じる気配もなく、けろりと言った。
「私もあなたが好きよ」
 悠太は思わず苦笑を浮かべ、「どういう意味で?」と聞いた。
「あなたは私が生まれて初めて持つ、同い年の盟友になると思う。数の世界を共有できる盟友に」
「・・・・・」
「とんちんかんな答えだと思っているのね?」
「思ってる」
「どうせホルモン異常か変人だもの」
 倉嶋は微笑を浮かべ「またご飯を食べにいらっしゃい」と母親のような口調で言った。
「あなたは少し痩せたわ。ここでならそんなに遠慮せずに食べられるでしょう?」
 倉嶋が家の中に入ってしまうと、悠太はポケットに両手を突っこんだまま、ゆっくりと歩き出した。五分刈りに伸びた頭を掻き、「確かに変わってるよな・・」とひとりごちる。キスをして告白までしたのにあっさり流され、ご飯を食べに来いと言われておしまいだ。
 彼女は恋愛に無垢であり、無知なのだ。自分で言った通りに。
 悠太は笠のかかった月を仰ぎ見、喉から笑いを押し出した。自己憐憫的な憂鬱が、わけのわからない可笑しさにすり替わっていく。
 自宅に着くと、悠太は母屋に足を向けた。父親は出張中だから、千恵と子供達しかいないはずだ。不機嫌そうな顔で玄関先に出てきたお手伝いさんに、開口一番謝った。
「すみませんでした。急な招待だったんで前もって言えなくて」
「そうですねぇ。こちらはもう食事を用意してましたものでね。それに受験生なんですから遅くまで遊び呆けるのはどうかと思うって、奥様も仰ってましたよ」
 遊び呆けるという表現が引っかかったが、悠太は「すいません」と頭を下げた。
「ああ、それと時々夜に走っている件ですけどね、子供達もついていきたがって困るし、第一夜は物騒でしょう。やめたほうがいいんじゃないですか?」
 夜のランニングは頭を休めてリラックスするためでもある。深夜に走っているわけでもないのにやめろと指図される謂れはない。胸をよぎった刺々しい感情をどうにか顔に出さずに辞去して離れに戻ると、悠太はベッドに倒れ込んだ。なんて一日だろう。本当になんて一日だったんだろう・・・眼を閉じ、ぐるぐる回りだした視界を遮断した。頭も心も相当疲れている。
 つい一ヶ月前、自分は学ランを着て、ぼろいスポーツバッグを肩に引っかけ、四十分に一本しかないJRに乗って近郊の男子高に登校する田舎の高校生だった。所属していた野球部は県大会の二回戦を勝てればマシなほうという弱小部だったが、部員は生真面目に練習していた。日が暮れるまでボールを追った後は、学校の近くに一軒だけあるコンビニで買い食いし、他愛もない話をするのが日課だった。
 山全体を薄桃色に染める山桜、恐ろしいほど澄んだ川の上流の早い流れ。大小の温泉旅館を狭い界隈に詰め込んだ、坂道だらけの街並み。
 故郷の景色をつぶさに思いだしているうちに睡魔に襲われ、悠太は浅い眠りに引きずり込まれていった。


「は? コクった?」
「ちょっ・・声が大きい」
 悠太は慌てて周囲を見渡した。校内ではなく学校に近い児童公園のベンチとはいえ、放課後なのでいつ生徒が通らないとも限らない。
「マジでコクったのかよ。あのオニクラに?」
「うん、当たって砕けた感じもしたけど・・・。宇田川には教えておこうと思って」
「つーかそもそも知らなかった。コクるほど好きだったとは」
「俺も知らなかった」
「何だそりゃ」
 さすがにキスのことは口に出せず、悠太は曖昧に笑った。宇田川は組んだ膝の上に頬杖をつき、悠太の顔をじろじろ眺めた。きまり悪くなるほど露骨に見つめているので、仕方なく「何?」と問う。
「見た目は別に悪くもねーけど・・・女と付き合ったことないっしょ?」
「中学んとき交換日記したことある。一学期だけ」
 宇田川は「へー」と半眼になって言い、長い指で唇の脇を掻いた。
「まあ、わかんねーけど頑張んな」
「・・・宇田川は?」
「ん?」
「だから、宇田川は?」
「俺が何よ? 意味わかんねー」
 薄く笑った宇田川を、今度は悠太が見つめる番だった。宇田川は悠太の眼を見返していたが、肩のあたりに視線をずらし、やがて完全に横を向いた。質問の意味を理解しているだろうことはわかっていた。倉嶋とキスをしたときと変わらない強度で、胸を重く衝かれる。
「んだよ、その熱い視線は・・」
 宇田川が苛立ちを頬に乗せて笑ったとき、「あ、直己―!」と呼ぶ女子の声がした。三人の女子が公園の脇の小道をこっちに向かって歩いてくる。宇田川と同じクラスの面々だ。
「ねーカラオケ行かないー? 今日は半額オフだって!」
「行かねーよ。今デート中なんで」
 悠太の肩に手を回して抱きよせ、「邪魔すんな。シッシッ」と女子を追い払う手つきをする。
「やだー! 何それー」
「キモいんだけど!」
 女子が笑い転げながら行ってしまうと、宇田川はあっさり手を離して「帰ろっと」と立ち上がった。
「お前、また行くの? あの数学の会に」
「行くよ」
「フラれたのに?」
「フラれたっていうか・・なんか良く分かんないけど、仲良くはなれるかも」
「『仲良く』ってそれ何語だよ」
 宇田川は吹き出すと悠太の真向かいに立ち、腰をかがめて視線を合わせた。にわかに意地の悪い笑みが浮かび上がったのでギョッとする。
「ヤリたいって思ってんだろ?」
「え?」
「あいつとヤリたい。触りたい。裸を見たい。そう思うだろ? 一度も考えたことがねーとは言わせねーからな」
「なに、いきなり」
 もちろん考えないはずはない。だが宇田川の口調にはそれを素直に肯定させない明白な挑発があった。悠太の眼つきが険しくなったのだろう、眼前の笑みが濃くなり、鋭い双眸が細められた。
「なあ、俺の本音言ってやろうか。聞きてっしょ」
 聞きたくない、と口にする前に宇田川はすらっと言った。
「俺はあの女とヤリたい」
 声を落とし、悠太の顔に表れた反応を注意深く見守っている。
「一度ヤッたら、もうムカつかなくなるし関心も消える。あの女を低次元に引きずり降ろせる。そーゆー風に思ってんのかもしれない」
「宇田川、もういい」
「安心しな。どうせあいつは俺にはやらせねーよ。ま、ヤッたところで、つまんねえセックスしかできねーだろうけどな。処女のくせにおっぱいはこう揉めとか命令しそーだし?」
 悠太はズボンのポケットに両手を突っ込んで跳ねるように立ちあがり、宇田川に頭突きを食らわせた。宇田川は二メートルも後ろによろけ、砂場に尻餅をついた。
「ってえ! 何すんだよっ!」
「拳使ったらケガさせるから、これで我慢してやったんだよ! 一体どういう神経してんだ?」
「どういう神経もクソもあっか、この田舎モンの童貞!」
 宇田川は手のひらで額を覆い「いってえ、マジで」と呻いた。
「田舎モンでも童貞でもお前ほど屈折してない。それじゃ倉嶋に相手にされなくて当然だいね!」
 お前呼ばわりをして言い捨てると、早足で公園を後にした。語尾がやや訛ったような気がしたがどうでもいい。大通りに出て地下鉄の入口のある交差点まで来たがそのまま通り過ぎ、悠太は憤怒に押されるように大股で歩き続けた。




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プリンキピア・マテマティカ (6)


 宇田川は会が終了する寸前に立ち上がり、一足先に帰った。女からメールが入ったので渋谷に行くと軽い調子で言ったが、本当かどうかはわからない。
 CPMという会は数論を軸にした丁々発止の頭脳合戦というべきもので、一人がAと言えばBが先だと突っ込みが入り、定石は捨てろと誰かが言い、すぐ瓦解する仮定をたてるべきじゃないと他の誰かが断じるといった具合で、最も広い知識と大きな発言力を持つのがヒロアキ、二番目が最年少の倉嶋だった。聞き役以外にはなれない悠太も日常から逸脱した知能の矢のような応酬を夢中で追っていた。午後五時に会は終了し、ヒロアキ以外のメンバーは「また再来週に」と言い、雑談を交わすこともなく帰っていった。悠太も腰をあげ、ヒロアキや倉島と一緒にリビングルームを出た。
「志保子、書庫の鍵借りるよ。見たい文献があるから」
 ヒロアキが言った。
「ヒロさん、夕飯を食べていったら? 母もあと一時間足らずで帰ってくるでしょうから」
「うん、そうするよ」
 この二人はどういう関係なんだろうという内心を隠し、「じゃ俺はこれで」と軽く頭をさげると、ヒロアキが「ちょっと待って」と引き留めた。
「まだ紹介らしい紹介をしてもらってないよ。海棠くんは志保子の彼氏?」
「わかってて言ってるのね。彼はクラスメートよ」
 笑みを含んだ倉嶋が答え、悠太のほうを見た。
「こちらは私の叔父。母の末の弟で、T大学で数理科学の講師をしているの」
「叔父さん・・」
 ずいぶん若い叔父だと驚きながら、悠太は整った顔を見た。倉島や悠太とせいぜい十歳程度しか違わないだろう。それにどう見ても白人の血が混じった顔立ちをしている・・という思考を容易に読まれたらしく、ヒロアキは質問に先んじて説明した。
「僕の母は、つまり志保子の祖母はアメリカ人なんだよ。だったというべきかな。もう亡くなっているから。志保子の外見にもその血は現れてると思うけど、気づかなかった?」
 そう言われれば確かに倉嶋の骨格や白すぎる肌は日本人離れしているが、白人の遺伝子のなせる業だとは考えもつかなかった。
「じゃ僕はしばらく書庫に籠るけどごゆっくり。よかったら海棠くんも夕飯を一緒に・・・ああわかった! 君が志保子のナイトだね。朝の電車の」
「ナイト?」
「こないだ志保子から聞いたんだよ。毎朝守ってくれるナイトが現れたって」
「はあ・・」
「脚色しすぎよ。私はそんな言い方はしなかったわ」
 倉嶋はこめかみに手のひらをあて、少し気だるげに笑った。
「そのお礼というわけでもないけれど、海棠くんも夕飯をうちで食べていって」
「え? いや、でも」
「ヒロさん、海棠くんの家に電話をしてくれる? 彼を食事に招待したいと。電話番号は・・」
 倉嶋が海棠家の電話番号を諳んじたので、悠太は眼を丸くした。
「なんで知ってるの?」
「名簿に載っていたもの」
「僕の姪は大抵の数列なら一目で覚えちゃうんだよ。そうだ志保子、氷を額に当てときなさい。熱があがっただろうから。ちょっと待って」
 ヒロアキは踵を返してキッチンに消え、タオルに包んだ氷嚢のようなものを手に持って戻ってきた。礼を言って受け取った倉嶋は階段を昇り、悠太を二階の一室に招き入れた。そこが倉嶋の自室だと理解したとたん、悠太の心臓が早打ちを始めた
 壁紙もカーテンもソファーもベッドも、全て青と白で構成された広々とした部屋だ。壁の一面が床から天井まで書棚になっており、圧倒的な冊数の書籍が上下左右に陳列している。悠太をソファーに座らせると、倉嶋は書棚から取り出した薄手のアルバムをテーブルに広げた。
「健二の写真を見たことはある?」
「いや・・ないけど」
「これが彼よ」
 倉嶋が指差したのは、制服姿の倉嶋と男子生徒が青葉台学園高等部の校門の前に並んで立っている写真だった。入学時に撮影したものなのだろう、「平成××度 入学式会場」という白い垂れ幕が片隅に映っている。今より少し幼い印象の倉嶋の横に立ったクラケンの顔に、悠太は釘づけになった。似ている。まるで異次元のパラレルワールドで生きている、もう一人の自分のように。
「驚いた?」
 倉嶋の問いに悠太は頷いた。全身に鳥肌が立つのを抑えることができない。顔の輪郭、目鼻立ち。血のつながりを持たない人間がここまで似ることがあるのだろうか。
「健二は落ち着きのない子だった・・。こうやってきちんと立たせるのは一分が限界だったわ」
 悠太の横に座った倉嶋は額に華奢な指をあて、密生した睫毛をこころもち伏せた。
「物事に集中するのも苦手で、私は時間の許す限り彼の勉強を見たけれど、かろうじて進級できる程度の成績を取らせるのが精一杯だった。十七歳になってもテレビのアクションヒーローに子供向けのアニメーションが好きで、いい意味でも悪い意味でも、とても子供っぽかったの」
 倉嶋は顔をあげ、悠太を見た。
「海棠くん。今は不愉快なことが多くても、そのうち健二のことは誰も口に出さなくなるわ」
「・・なんで?」
「あなたのほうが格段に優れていると皆が認めるようになるから。卒業を待たずに主軸がすり替わるはずよ。海棠悠太に似ていたクラケンという風に・・」
 倉嶋は言葉を切った。アルバムを手に取って立ち上がった拍子に体が少し前後にぶれたが、ゆっくりと歩き出し、書棚にアルバムをしまった。
「倉嶋」
 悠太は立ち上がった。「さん」を省略したことに気付いたが、構わずに傍に寄った。
「大丈夫よ」
 制するように微笑んだ倉嶋は、理知の結晶のような瞳で悠太を捕らえた。彼女は一体何を見ているのだろう、と悠太は背筋を波立たせながら見つめ返した。悠太を見ているのか。それともこの顔を持っていたクラケンを透かし見ているのだろうか。
「クラケンは・・・大好きだったって聞いた。倉嶋を」
 悠太は掠れ声で言った。
「そうね。子供の頃、私をお嫁さんにすると言っていたわ。私は八歳から十三歳までボストンで教育を受けて帰国したのだけど、五年ぶりに会った彼は八歳の頃と同じことを同じように言っていた。高校生になってもまだ時々は」
「・・・」
「宇田川くんにキスをされたとき------この話は彼から聞いた?」
 悠太は頷いた。
「健二はひどく泣いたわ。宇田川くんが怒って出ていったあと、自分にもキスをして欲しいと泣きながら言ったの。あいつとしたのにどうして自分にはしてくれないのって、殴られて腫れた顔で・・・」
 倉嶋は眼を閉じた。体がぐらついたので悠太はとっさに二の腕を支えた。
「本当はわかってる。志保子はきっと百年待ったって俺のものにはなってくれない。でも他の男のものになるのを見るくらいなら、その前に死んでやるって言ったわ。もちろんその場の激情で口走った言葉に過ぎない。でもその二日後に彼は亡くなった。葬儀の間中、私には悪い冗談としか思えなかった。健二はきっと起き上がって舌を出して笑うつもりだと、本気で信じていたの。そんな自分に笑ってしまったけど・・・でも彼は本当に、私の関心をひくための悪ふざけが好きな子だったから」
 倉嶋は温度の高い吐息をついた。
「少し寄りかからせて・・・嫌でなければ」
 倉嶋は悠太に寄り添った。嘘だろ、と悠太は内心で呟いた。服越しに柔らかな肢体の感触が伝わってくる。今にも心臓が破裂して壊れてしまいそうだ。
「いとことして、いいえ、むしろ弟のように彼を愛してた。異性だと思ったことはなかったわ。でも」
 青白い手が悠太の頬に伸びる。体内に火が灯っているかのように熱い。
「私は、キスをしてあげるべきだったのかしら」
 倉嶋は独り言のように言い、ため息の中に密やかな笑いを混ぜた。
「あなたに聞いたって仕方ない・・・そんなことはわかっているのに」
 似ているからだ、と悠太は唇を引き結んだ。自分の顔がこれほどクラケンに似ていなければ、倉嶋はこんな心情を吐露したりしない。「顔が似ているくらい、どうということもないのに」と、美術室で彼女は涼やかに言ってのけたのに。
「俺は・・クラケンじゃない。その通りだよ。聞かれてもわからない」
 倉嶋の深い瞳に小波がよぎる。悠太は自分の突き放した口調を後悔したが、その一方で傷つき、真意の見えない彼女に苛立ってもいた。なのに体を離せない。倉嶋の二の腕を離し、さんざん迷ってから、寄りかかってくる体に両の腕を回して抱き締めた。腕が余るほど細い体は少しも抵抗を見せなかった。控えめな乳房の膨らみの感触を胸で受け止める。悠太は倉嶋がしたように、彼女の熱い頬に手を当てた。
「冷たくて、気持ちいい・・」
 倉嶋が言い終わらないうちに、顔を近づけてキスをした。倉嶋は眼を閉じ、無粋に押し付けるだけの唇を受け入れた。
 突然の死は周囲の人間に予期せぬ罪悪感を運んでくる。幾ら後悔しても後の祭りとわかっていても、尽きぬ問いは胸の内で繰り返される。倉嶋も、多分宇田川もそうなのかもしれない。
「唇も冷たい」
 倉嶋は間近で微笑んだ。悠太は美しい少女に微笑み返すことはできなかった。問いが喉から飛び出しそうになる。キスを拒まないのは、クラケンへの罪滅ぼしのためだろうと。
 悠太は幾度も彼女にキスをした。倉嶋がそれに応えるたびに沈鬱さがその重さを増していく。体の興奮だけが独り歩きをするのを、ぽつんと見つめている自分がいる。
 宇田川の顔が頭に浮かんだ。莫大な罪悪感と、かすかな優越感。やっとの思いで唇を離しながら、倉嶋への憧憬の芽が勢いよく吹き出し、憧憬とは別の枝葉が伸長しようとしているのを、悠太ははっきりと意識していた。





プリンキピア・マテマティカ(5)


 悠太が倉嶋の家に招かれたことは、数日後には学校中に知れ渡ったらしい。「海棠くん、オニクラのファンに嫉妬されてるよー」と青木が嬉しそうに報告してくれた。
「でも気にすることないけどな。天下の海棠家だし嫌がらせなんかされないよ。だいたい遊びに行くんじゃなくて何かの勉強会だろ? ま、倉嶋家は格下だけどオニクラは秀才だから、つるむ価値はあるよな」
 わかりやすい座標軸しかない青木は置いておくとしても、A組にも存在する倉嶋のファンの心理は複雑なようで、悠太に対してあからさまな敵対心は見せないものの、小さな悪意のジャブを繰り出してくるようになった。
 苦手な英語の時間に教科書を音読させられたとき、ただでさえひどい発音の上に単語を読み間違えてしまった。「ひでーな」と聞えよがしに吹き出した二、三人の笑い声には棘が含まれていた。廊下を歩けば「クラケンに似てるって得だよなー」と誰かの声が飛んでくる。
 倉嶋と同じ時間の電車に乗り、校門まで一緒に歩くというなかば習慣化した行為も、やめたほうが無難かもしれないと悠太は迷った。だが自分がいれば痴漢よけくらいにはなるだろうし、校門まで一緒に歩くあの短い時間を手放したくない。倉嶋を彼女にしたいとか熱烈に好きだとか、そういう感情よりは手前の、山中に咲く野の百合の造形の見事さをいつまでも見ていたいような気持ちが悠太にはあった。
 だがその朝は、「野の百合」などという気障な表現を使っている場合ではなかった。
「本日七時三十分頃、車両故障が発生したため、ダイヤが大幅に乱れております。お急ぎのところご迷惑をおかけし・・」
 アナウンスの口調のなめらかさとは裏腹に、すし詰めの車内は地獄そのものだった。手足を磔にされた上に肋骨を砕かれそうな圧がかかり、まともな呼吸すらできない有様だ。電車のドアが閉まる直前に飛び乗ったため、倉嶋が同じ車両にいるのかどうかもわからなかったが、ターミナル駅で乗客がどっと降り、なんとか少しは体が動かせるようになって一息ついたとき、「海棠くん」とすぐ後ろで声がした。悠太はネジを無理矢理回すように体を回転させて倉嶋と向かいあったが、向かいあったとたんに後悔した。近すぎる。「おはよう」と、混雑など存在しないかのような表情で挨拶をする彼女の吐息が喉にかかるほどだ。
「本は読み終わった?」
 距離が近いためか囁くような声で倉嶋が聞く。悠太は動揺を顔に出すまいと努力しながら頷いた。
「面白かった。最後のどんでん返しとか、実話じゃないみたいで」
 倉嶋は微笑んだ。悠太は話題を探した。横並びならまだしもこの体勢での沈黙には耐えられない。
「えーと・・宇田川は誘わないの」
「CPMに?」
「数学の成績はいいらしいけど・・その、仲があんまり良くないから誘われないって言ってた」
「本人が来たいのなら構わないけれど、そうじゃないでしょう」
 倉嶋の髪からは誘惑的な甘い香りがする。心臓の鼓動が倍加し、意志に反して固くなりはじめる股間に狼狽しながら、あの痴漢と自分との差異は紙一重に過ぎないと悠太は自嘲した。
「私があの人を誘わないのは個人的な感情のせいではなくて-----正直に言えばどんな個人的感情も私は持っていないけれど----向き不向きの問題よ。彼は数のロマンチシズムを追うタイプではなく、現実的な数字のほうに適性がある人だと思うから」
「お金とか、経済ってこと?」
「ええ。でもあなたは数学の持つ無類の美しさが好きなのだと、黒板の数式を見たときに感じたの。だから誘ったのよ」
 倉嶋は悠太の眼を平然と見つめながら話をしている。体が触れ合うこの近距離で、なぜ照れもせずそんな芸当ができるのだろう。対抗するように見返していた悠太は根負けして視線を左上方にずらした。
「ああ、そうね・・・見つめすぎるのは失礼だとわかっているけれど」
 倉嶋は少し笑って言った。
「他に見たいものがないの。我慢して」
 こともなげに発されたその言葉を、悠太は数日にわたって反芻する羽目になった。いったいどういうつもりの発言なのかと、しまいにはやるせない怒りさえ覚えながら。


 コレギウム・プリンキピア・マテマティカなる会が翌日に迫った金曜日、昼休みになるや、倉嶋はクラスメートに取り囲まれていた。一人が物理の参考書を片手に遠慮がちな質問をし、倉嶋がそれに答えると、我も我もと寄ってきて長いQ&Aタイムになるのは既に見慣れた光景だ。青木もちゃっかりその中に混ざっている。倉嶋は噛み砕いて教えるのがうまいが、あまりに幼稚な質問には「教科書を最初のページから読みなさい」とにべもない。悠太は青木に昼食に誘われる前に教室を出て廊下を歩いた。
「あ、ニセクラだ」
 背後からひそかな笑い声が聞こえた。「偽物のクラケン」の略だと即座にわかったので相当頭にきたが、相手にしたら負けだと自分に言い聞かせ、通り過ぎようとした。
「おっと、わりー」
 聞きなれた声に振り向くと、廊下に四つん這いに倒れた男子の傍らに宇田川が立っていた。
「わざと蹴ったんじゃないのよ。カンベン」
 宇田川は男子生徒の胸倉を掴んで立たせた。
「てかお前、人の名前くらいちゃんと呼べ? 小学生じゃねーんだからさ」
 驚きのあまり声も出ない様子の男子のネクタイを直してやりながら、宇田川は凄みのある笑顔で言った。だが悠太を振り向き「メシ行こーぜ」と言った顔は、もうケロリとしている。悠太の喉元に可笑しさがこみあげ、泣きたいような気分がじんわりと広がった。
 宇田川は校門の外に出て、悠太を路地裏の小さなラーメン屋に連れていった。小汚い店だが流行っているらしく、学生やサラリーマンで満席だった。悠太が大盛りラーメンと餃子二人前とご飯を注文すると、宇田川は呆れた顔になった。
「それ全部食う気?」
「昼に食いだめしなきゃ。家のご飯は量が少なくて」
「お代りすりゃいいっしょ」
「しづらいし」
「なんで」
 この男になら何を言っても大丈夫だと確信し、悠太は離婚や母の入院のことなど、内々の家庭事情を話した。黙って聞いていた宇田川は「ま、メシの量くらいちゃんと交渉しな」とだけ言いラーメンを啜った。
「そーいや明日だっけ、なんとかの会は」
「うん、フェルマーの最終定理の部分的証明がテーマになるらしいけど」
「何それ? わけわかんねー」
 悠太は覚えたばかりのにわか知識をかいつまんで宇田川に説明した。一見単純そのものであるフェルマーの定理は、下の通りに記される。

  Xn+Yn = Zn
  この方程式は、nが2より大きい場合には整数解をもたない

 n=2の場合、つまりX2+Y2 = Z2という二乗の式は「直角三角形の斜辺の二乗は他の二辺の二乗の和に等しい」というピタゴラスの定理を表す方程式でもあり、例えばX=3、Y=4、Z=5のように、多くの整数解があることが知られている。
 フェルマーはこの二乗を三乗以上に置き換えることで、ピタゴラスの定理を悪夢の難関に変貌させてしまった。なぜなら証明すべきnが無限に存在するため、全てに敷衍できる法則を発見できない限り、永遠に完全証明には至らないからである。
 それでもこの定理は、時代を隔てた数人の数学者によって部分的に証明され続けてきたが、完全証明に至ったのはワイルズただ一人だけである。倉嶋に借りた本は一般向けに著されたもので、歴代の証明の詳細には触れていない。だが仮に触れていたところで高校数学しか知らない自分に理解できるとは全く思えず、悠太は明日が少し怖かった。
「わかんなきゃわかんないって言やーいいじゃん」
 宇田川は面白くもなさそうに言ってから、急にニヤッと笑った。
「あ、そか。オニクラの前でいいとこ見せたいってか」
「そういうんじゃないけど」
「けど何」
「一人だけわかんないのが、いたたまれない」
「じゃ、もっとわかってない誰かを連れてけばいい」
「え?」
「俺も行く。オニクラにそう言っといて」
 宇田川は断りもなく悠太の餃子を割り箸でつまみ上げ、口の中に放り込んだ。


 倉嶋に渡された地図によると、彼女の家は海棠家から500m足らずの距離にある。
 悠太の家までやってきた宇田川と肩を並べて倉嶋の家に向かった。深い赤の革のジャケットにジーンズを着こなした宇田川は格好いい。さすがは都会の高校生と感心してしまうが、襟のよれたTシャツに古いパーカーの自分のダサさ加減が際立つような気もする。それにしても、数学の会や定理の証明に興味があるとも思えないのに、なぜ一緒に来る気になったのだろうか。
「倉嶋さんに喧嘩売ったりしちゃ駄目だからな」
 悠太が何度目かの念押しをすると、宇田川は笑って流した。
「しないって。俺今日はお前の保護者だもん」
 高い塀に囲まれた倉嶋志保子の家は、瀟洒なつくりの白壁の三階建てだった。
「いらっしゃい」
 門まで迎えに来た倉嶋は、白いタートルネックのセーターにスリムな黒のパンツという姿だ。髪を後ろでまとめているため、普段より大人っぽく見える。玄関までの石畳を歩きながら、悠太から宇田川に視線を移したが、微笑みを保ったまま何も言わなかった。
 CPMの参加者は既に先に来ており、三十畳はあるかと思われるリビングルームで寛いでいた。眼鏡をかけた大学生らしい男女、ハーフっぽい男前の二十代の男、三十前後の年齢に見える地味な印象の男が二人いる。
「若いなぁ。高校生?」
「三年生かな? こんなとこに来て、受験勉強とかいいの?」
「志保子が連れてくるくらいだから、よっぽどすごい秀才なんだろうね」
 口々に話しかけられ戸惑う悠太をよそに、宇田川は「いやーまったく普通の高校生っすけどね。高等数学とか何も知らないし」とのんびりした口調で答えた。
「皆好き勝手なことくっちゃべるけど、ビックリしないでね」
 魅惑的な笑顔を振りまいた男前が言った。
「今日はオイラーについてやろうかと思ってる。といっても、いつも本筋から脱線しちゃったりするんだけど。オイラーはわかる?」
「虚数を使って、n=3について証明した人ですね」
 悠太は答えた。
「そう、フェルマーの時代から一世紀後、初めて証明の突破口を開いた天才だよ。もちろんたった一つのnを証明したに過ぎないけど、彼の天才ぶりは数学の分野だけに留まらなかった。もっと実務的な分野でも---」
「ほら、ヒロアキさんもう脱線してる。物理の話とか始めるつもりでしょ?」
 眼鏡の女性が笑った。
「話題を限定しちゃ面白くないよ。ある程度の縛りは必要だけど、心を解放して交流しなきゃ新しい発想は何も生まれない」
「でもワイルズは七年間も世間との交流を遮断したよな。証明の完成のために」
 地味なスーツを着た男が小さな声で言った。
「だから一度、証明を間違えたんだよ」
「どんな天才でも人間は人間」
 倉嶋が言った。
「人間と間違いは常にセットになっていて当然よ。でなければ生きながら神になってしまうわ。海棠くん、宇田川くん、座ってくつろいで。飲み物を持ってこさせるから」
「志保子、おいで」
 ヒロアキと呼ばれた男前が倉島を呼んだ。彼女が傍らに立って身をかがめると、男はその首筋に手のひらをあて、「ああ、やっぱり微熱がある」とからかうように言った。
「CPMとなると熱を出すね。わかりやすい体だな」
「興奮しているの。今日はたくさん喋るから、ますますあがるかもしれないわね」
 微笑み返す倉嶋の顔を見る悠太の胸に妬心が湧いた。

 それから一時間半、白熱した議論の内容は次第に数論的な専門性を帯びていき、悠太は半分も理解できなかったが、不可思議な笑みを浮かべながら黙っている宇田川も多分同じことだろうと思った。
「そろそろ休憩にしましょう」
 倉嶋志保子が言った。
「トイレどこ?」
 宇田川が聞いた。紅茶を飲み過ぎてしまったため、悠太も同じことを聞こうと思っていた。
「案内するわ。海棠くんもどうぞ。お手洗いは各階にあるの」
 居間を出ると、お手伝いさんらしき若い女性が「すみません、志保子さん」と声をかけてきた。
「皆様にお菓子をお出ししたいのですが、今奥様から急ぎの電話があって、私はちょっと出かけないと・・」
「私がやっておくわ。今キッチンに行くから」
 宇田川に一階のトイレを譲り、悠太は二階のトイレで用足しをしながら「面白いな」と呟いた。彼らの話がすべてわかるようになればきっともっと面白いだろう。
 トイレを出て一階に降り、居間に戻るかわりにキッチンを探した。何か手伝うことがあるかもしれないと思ったからだ。
「どういうつもりだよ?」
 人声が斜め前方から聞こえた。宇田川の声だ。
「どういうつもりって?」
「会長さんさー、わざと海棠に近づいてるだろ。クラケンに似てっから傍に置いときたいとか?」
「あなたは時々びっくりするような見当外れのことを言うのね。ところであなたは今日なぜここに来たの?」
 悠太は二人が話しているキッチンの入口の脇に立ったまま、中に入ることができなかった。カチャカチャという食器の音が響いている。
「話すり替えんな。何も見当外れじゃねーだろ。あいつにはクラケンの代理は無理だぜ。ずっと頭がいい。お前の家来にはなんねーよ」
「私は家来を欲しがったことはないわ」
「バカな金魚のフンが死んでも笑ってたくらいだから、口ではそう言うよな」
「もう帰りなさい。そんなことを言いに来たのなら」
「命令すんな」
 倉嶋は答えない。物音が途絶えた。
「・・・なんで逃げない?」
「逃げたらお菓子の用意は誰がするの?」
 倉嶋の声は平坦で、少し疲弊しているように聞こえた。
「手伝わないなら出ていって。行き先は玄関でも居間でもお好きなほうに・・・」
 悠太はようやく足を動かし、キッチンの中に入った。皮膚がビリビリするほどに全身の脈が激しく打っている。個人宅としては見たこともないほど広く、レストランの厨房のようなキッチンの片隅に、宇田川は倉嶋の両腕を掴んで立っていた。
「宇田川。手を離して」
 悠太は言った。思いのほか自分の声は落ち着いていた。
「喧嘩は売らないって言っただろ? 約束は守ってほしい」
「別に喧嘩じゃねーよ」
 宇田川は倉島の腕を離した。眼を一瞬伏せ、しれっとした笑みを浮かべながら悠太の顔を見る。
 喧嘩じゃない。
 悠太にもそれはわかっていた。
 宇田川は、倉嶋が好きなのだと。
 誰かにそう指摘されれば、不敵な笑顔で百万回でも否定するだろうその奥の奥底で、この男は彼女を欲しているのだと。



プリンキピア・マテマティカ(4)


 J病院の前で車を降り、母の病室に向かった。母は知人が多いので群馬からも時折見舞い客が来るものの、頻繁に訪れるのは悠太一人だけだ。父は入院手続きや、母の身の回りの世話をしてくれる女性など全てを手配してくれたが、一度も母を見舞わない。
 個室のドアは開いていた。ベッドの上で半身を起していた母は悠太を見て微笑んだ。麻痺のため頬の肉が片側だけ垂れ下がり人相が変わってしまっている。最初見たときは言葉を失うほどショックだったが、やっと少しは見慣れてきた。
「今日のリハビリは済んだ?」
 母は頷いた。
「何か、食べたいものとかある?」
 悠太はゆっくりと短く区切って発音をした。母は首を振り、しばらく黙っていたが「がっこうは」と言い、問うように首を傾げた。失語症になったため、話す、聞く、書く、読む、という言語にかかわる全ての機能に障害が現れている。脳に言語の蓄えはあっても引き出しが開かない状態だと主治医から説明を受けた。
「いい学校だと思う。すぐ慣れるよ。」
 明瞭すぎる発声が、我ながら不自然に聞こえてしまう。何を話せばいいのかわからない。卒中で倒れる前の母は、こちらから話しかける必要などない人だった。陽気で早口で多弁で、いつも忙しく、万事を手早くこなす人でもあった。
「天気いいよ。外に出ようか」
 母が頷いたので、ケアワーカーを呼んで車椅子に乗せてもらい、悠太が押して建物の外に出た。病院の車椅子講習会に出席したので、操作は難なくこなすことができる。同じように車椅子を押したり、介助しながら歩く家族連れがあちこちに見られた。夫婦なのだろう、白髪の男性の車椅子を押した初老の女性が「こんにちは」と話しかけてきた。
「いい息子さんねえ、若いのにしっかりしてて」
 悠太は会釈をした。
「どのくらい入院していらっしゃるの? うちは二週間になるけど」
「あの、十日前からです」
「リハビリは最初が肝心だものね。頑張りましょうね」
「ありあとう、ごあいます」
 母は笑顔で答えた。不自由はあっても眼の明るさは以前と変わらない。姦しく喋る母を鬱陶しく思ったことは一度や二度ではないが、こうなってみると明朗な性格だけが救いだとつくづく思う。
 帰り間際、母はろれつのよくまわらない舌で、「こんなしょっちゅう来なくていいから、勉強したり友達と遊んだりしなさい」という意味のことを言った。

 だが遊ぶ相手など東京に一人もいないので、転入後最初の週末は見舞いと受験勉強と累計30kmに及ぶランニングだけで終わった。日曜日の夕食時には、在宅していた父と久しぶりに言葉を交わした。
「悠太、少しは学校に慣れたか?」
「うん」
「いい学校でしょ? 本来は地方から転入なんかできないんだけど、特別な計らいをしてもらったのよ。うちは寄付も多いしね」
 父の後妻の千恵は、悠太ではなく父を見ながら得意げに言った。
「編入試験の結果も考慮されたんだよ。悠太は成績がいいからな」
 父のフォローには返事をせず、千恵はフォークに刺した肉の一片を口に入れた。
「あら、今日はなんだか味が違うわね。お肉屋さん変えたの?」
「すみません。いつもの『露伴』が臨時休業だったもので」
 父のグラスにワインを注いでいたお手伝いさんが謝った。
「ねえ悠太くん、瑠花のお肉食べて? もういらない」
 瑠花が甘えた口調で言った。小柄で華奢な瑠花は、いつも皿の上の食べ物をフォークでつつき回すだけでろくに食べない。
「もう少し食べないと大きくなれないよ」
「そうだよチビ。ほら俺なんかもう半分以上食べちゃったもんねー」
 勇樹が意地悪く言うと、瑠花は恨めしそうに二つ年上の兄を睨んだ。
「お兄ちゃん嫌い。悠太くんは優しいのに」
「終わりにしていいわよ瑠花。悪いけど今日のお肉は今一つだものね」
 千恵はそっけなく言った。瑠花が悠太に甘えるたびに少し不愉快そうな顔になる。悠太にとっては十分美味しいと思える食事だが、ナイフとフォークでは食べた気がしない。重厚なダイニングテーブルの上の生花も高そうな食器類も、悠太の生活感覚とはかけ離れたもので、居心地が悪かった。
 食事がすむと「ごちそうさま」と礼を言い、母屋から離れた。千恵の前では父もあえて悠太を団欒に誘わないが、離れまでの短い距離を一緒に歩きながら母の具合を尋ねた。横に並ぶと悠太の背は父より高い。父の背丈を越えたことを知ったのはつい最近だ。
「院長先生とは電話で何度か話して、ちゃんと頼んであるから」
「うん」
「受験勉強は順調か? 志望は地元の国立だったな」
「うん」
「小遣いは足りてるか」
「大丈夫」
「あまり気を遣わなくていいんだからな。この家はお前の家でもあるんだから」
「うん、ありがとう」
 まるでドラマの中の親子の会話のようだと思う。離れに入り、机の前に座って参考書を広げると、人の気配のない静けさが肌を刺すように感じられた。故郷の友達の誰とでもいい、ゲラゲラ笑えるようなバカ話が無性にしたかった。CDをコンポにセットし、イヤホンを耳にはめながらふと倉嶋志保子の顔を思い浮かべる。金曜日に言っていた『何とかの最終定理』という本を、彼女は明日持ってくるのだろうか。


 月曜日の朝、悠太は飛ぶような急ぎ足で駅に向かった。足取りが軽いのは慣れたジョギングシューズを履いているためだ。学校に着いたらローファーに履きかえればいいと開き直っている。
 金曜日とほぼ同じ時間に駅のホームに着くと、倉嶋志保子はそこにいた。もちろん会えることを期待して急いだのだが、いざ本人を目にすると心臓が躍り出した。ちょうど電車が来たところで、声をかけるまえに彼女は乗り込んでしまった。一瞬迷ったが同じドアに飛び乗った。乗客の間から斜め後ろの顔が少し見える。
 駅を二つ過ぎたところで、倉嶋が後ろを振り向いた。彼女の動作にはおよそ性急なところがないが、振り向き方もゆっくりしたものだった。倉嶋の視線はすぐ背後の男の顔の上に留まった。サラリーマンとおぼしきその男を、静かな表情で見つめ続けている。どうしたんだろうと悠太は内心で首を傾げたが、顔をひどく強張らせた男が、次の駅で他の乗客を押しのけるようにして電車を降りたとき、思わず「あ」と声をあげてしまった。合点がいったとたん、なぜか顔がカッと熱くなる。乗り込んできた通勤客の流れに乗って彼女の傍に移動した。二人ともつり革を確保したので横並びになる。
「おはよう」
 倉嶋は平静な声で挨拶をした。悠太は応えるかわりに「大丈夫?」と言った。
「熱は下がったわ」
 その話じゃない、と思ったのが顔に出たのだろう、倉嶋は「大丈夫よ」と短く答えたが、滲み出た苦笑の中の嫌悪は隠せない。
 悠太は眉間に皺を寄せている自分に気づかないほど、訳のわからない怒りに渦巻かれていた。その怒りが普段は決してとらないような行動に走らせたのかもしれない。斜め前の座席が空き、座ろうとした乗客に「すみません、具合悪い人がいるんで」と言うが早いか、倉嶋の腕を引っ張って座らせたのだ。倉嶋は眼を見開き、心底驚いたような顔になった。
「座ってたほうがいいです」
 それだけ言うと悠太は倉嶋の顔以外の視線の置きどころを探したが、景色が見えない地下鉄なので広告を眺めるしかなかった。
 電車を降り、駅の外に出るまで無言だった倉嶋が「ありがとう」と言った。悠太は首を横に振った。
「ああ、これ」
 倉嶋はバッグから取り出した本を悠太に差し出した。『フェルマーの最終定理』というタイトルのハードカバーだ。
「もしその本が面白かったら----きっと面白いと私は確信しているけれど---海棠くんを私の家に招待したいの」
「え?」
「月に一度か二度、私の家で『コレギウム・プリンキピア・マテマティカ』、略してCPMという小さな会を催しているのだけど、それにぜひ参加してくれないかしら」
「コレギ・・?」
「ラテン語よ。日本語にすれば数学原理研究会・・というと堅苦しく聞こえるでしょうけど、要するに数字の世界で遊ぶ同好会のようなもの。メンバーの年代はまちまちで、毎回五、六名が参加しているわ。次回はフェルマーの最終定理の部分的証明がメインテーマになりそうなの。良ければ来週の土曜日の予定を空けておいて」


 倉島志保子の家に招かれた、といっても個人的な誘いではないのに心臓を高鳴らせている自分が可笑しく、悠太は授業中に何度も苦笑してしまった。
「海棠くん、カフェ行かない?」
 四時間目が終わると、クラス委員の青木に声をかけられ、連れ立ってカフェテリアに行った。この小柄な男子は毎日律儀に昼食に誘ってくれるのだが、正直なところあまり話は合わない。青木は初等部から十年以上もこの学園にいるため、生徒全員の家柄を把握しているのだと自慢した。
「ここだけの話、宇田川とかあーいう目立つヤツらの親って、実はただの成金なんだよね。金の力だけでこの学園に来てんだよ。つまり海棠家みたいな、まあ正直うちもそうなんだけど、歴史とか由緒ある家とは全然格が違うわけ」
 同意を求めるような表情で見つめられたので眼を伏せ、悠太はカレーライスのわずかな残りをスプーンで浚って食べた。
「家柄ってそんな大事かな」
「あえて自慢するもんじゃないけど、選ばれた者として誇りに思うべきじゃないかな」
「選ばれたって・・誰に?」
「さー、神とか?」
 冗談めかしてはいるが、若干本気に違いないと思わせる眼の色だ。
「・・・ごめん、家に電話するの忘れてた」
 悠太は眼を瞬かせながら立ち上がった。なんだか宇宙人と話しているようだ。頭を搔き搔きカフェテリアを離れ、中庭に降りて花壇の縁石に座ると、倉嶋から借りた本を広げた。一刻も早く読みたくて持ち歩いていたのだ。まだパラパラとしかめくっていないが、非常に興味をそそられる本だということはわかった。
 フェルマーの最終定理の特徴は、一見ごく簡単な、中学生でも理解できる命題なのに、実際に真偽の証明を試みようとすると悪魔的に難解であるという点にあるらしい。フェルマーの時代から実に三世紀半を経て、イギリスの数学者アンドリュー・ワイルズが完全証明するまでのドラマティックな歴史が、この本の中で展開されるらしい。
 序の項を読んでいると、深紅のスニーカーが眼の前に立ったので、悠太は笑顔になって見上げた。宇田川は本をつまんで背表紙のタイトルを見ると、興味なさげに片眉をあげた。ブリックパックのジュースのストローを銜えながら悠太の横に腰を下ろしたとき、背後で声がした。
「ねえ、直己知らない? こっちに歩いてくるの見たんだけど」
 甲高い女子の声は繁みの向こうから聞こえてくる。宇田川は「げっ」と低く呟くと、人差し指を唇にあて、悠太に沈黙を命じた。
「や、見てないけど」
「そお? ヘンだなぁ」
 その女子は「直己知らない?」と他の生徒にも聞いていたが、諦めてどこかに移動したらしく声が聞こえなくなった。宇田川はソロリと腰をあげて背後を確認し、ハーと息をつきながら座り直した。
「モテるね」
 悠太は笑った。
「ちげーよ。ヤッちゃったんで、しつこくされてるだけ」
「やっちゃったって何を?」
 宇田川は眼を剥いて悠太を見た。その顔で「ああ」と納得したが、おそらく「やっちゃった」が日常の一部であろうこの男のようなタイプは今まで周囲にいなかったので調子が狂う。
「誘われて一回ヤッただけだぜ? なのに毎日毎日うちの教室に来やがんの。帰りも待ち伏せてんの。いやもーマジでこえーのなんの」
「付き合わないの?」
「あそこが緩すぎて無理」
「・・・」
「何赤くなってんの?」
「なってない」
「いやなってるっしょ。色が黒すぎてよくわかんないけど」
 必要以上に顔を近く寄せた宇田川は、揶揄を丸出しにして笑っている。
「恥じらった顔がなかなかだよな。女にそう言われたことある?」
「ないよ」
 身をひいて答えると、宇田川はブリックパックから引き抜いたストローを歯の間に挟んで弄んだ。
「お前もやっちゃえば? その本貸した女を下手に神聖化する前にさ」
「え?」
「スノッブな数学オタクの集まりに誘われたんだろ」
「・・なんで」
 悠太は呆気にとられて宇田川の顔を見つめた。
「この学園における全ての目撃情報は、なぜか俺んとこに集まるよーになってんの。お前って既に有名人だぜ。クラケンに似てるってのも理由だけど、オニクラに気に入られてっからさ」
「・・・」
「ちなみにこの学園の生徒でその集まりに誘われたヤツは一人もいない。たとえ数学が得意でもあいつに気に入られなきゃ呼ばれない・・っつーのは俺のことだけどさ。数学だけなら学年二位なんで。不動の二位なんだよな。ムカつくことに」
「ごめん宇田川」
 悠太は思慮深い表情を装って言った。
「これからは不動の三位になるかも」
「は?」
「俺が来ちゃったから」
 宇田川は愉快そうに眼を見開き、「マジかよ」と声をあげて笑った。びっくりするくらい明るい、こだわりのない笑い声だった。


プリンキピア・マテマティカ (3)


「クラケンは・・ネクタイ締めんの下手クソでさ、よくオニクラが直してやってた。公衆の面前で堂々とやりやがんの。それでも何の噂もたたねーくらい、クラケンってのはマジでトロいヤツだった。でも」
 宇田川はバッグを受け取ると歩き出したので、悠太も横に並んだ。
「クラケンはあの女が大っ好きで、金魚のフンみたいにくっついてた。なまじイトコで面倒見てもらえるんで自分は特別みたいな意識があったと思う。生徒会役員でもねーのに生徒会室に入り浸ったりしてさ。だから発狂したんじゃねーかって思うくらい泣き喚いたな。オニクラが」
 言葉を切り、宇田川は少し躊躇した。
「男とキスしてんのを見たとき」
 悠太は宇田川の横顔を見た。笑みを乗せて悠太を見返した眼には、皮肉めいた色が浮かんでいた。
「ここで問題。オニクラとキスしてた物好きな男は誰でしょう」
 答えを察した悠太に向かい、宇田川は「正解」と言った。自分の表情が変わったのかどうかわからない。だがたった今まで抱いていた高揚感が、山あいの霧のように消えていく。
「言っとくけど出来心な。生徒会室で二人っきりで仕事してたら険悪になってさ。あの顔をどーにか崩してやりたくて、殴る代わりにキスしちゃったわけ。犯してやろうかくらいの勢いで。したらクラケンがタイミングよく入ってきてもー修羅場っすよ」
 ふ、と短い笑いを洩らす。
「泣いたクラケンにメチャクチャ殴られたんでこっちも殴り返してさー。お前みたいなバカ、女に相手にされるわけねーだろ、眼覚ませアホとか口走ったりして。で、次の日クラケンはインフルで休んだ。死んだのはその次の夜」
「・・・」
「お前、罵倒した相手に死なれた経験ある?」
 悠太は首を横に振った。
「ねーよなそりゃ。なくて羨ましいよマジで・・・で、殴った理由ってのは、オニクラが笑ってたから」
「え?」
 ぼんやりと問い返す。二人がキスをしている場面が、悠太の脳内に広がっている。
「通夜でさ、オニクラは笑ってたんだよ、通路の隅で、ひとりで」
「笑ってた」
「笑ってたっていうか、笑いを噛み殺してる感じだった。イトコの通夜だぜ? 何があったって笑えねーだろ普通は。訳わかんなくてゾッとして、めちゃくちゃムカついてきた。こっちは最低の気分なのに何笑ってんだって」
「・・言ったの?」
「俺が黙ってると思う?」
 宇田川は唇を開いて笑おうとしたが、表情はすぐに閉じられた。
「けどオニクラは答えなかった。あなたに理解できないことを言うつもりはないわとか、あの顔で言うわけ。俺は何か黙っちゃってさ、睨んでたら『またキスでもしたいの?』ってバカにしたみてーに言われたんで軽く手が出た。噂じゃ思いっきり殴ったみてーな話になってるけど。つーか俺なんでこんな話お前にしてんだ?」
 悠太は黙っていた。どう返事していいのかわからない話だ。キス。葬儀で笑っていた倉嶋。その倉嶋に夢中だったクラケン。予期せぬ死に見舞われた、自分と顔の似た生徒。
「宇田川は」
 校門に入ると、悠太はぽつりと言った。
「倉嶋さんが好きなんだ」
「そーゆー解釈されると思ったけど」
 宇田川はつまらなそうに鼻で笑った。
「とにかく目ざわりなんすよ。見てるだけで超ムカつくの。海棠にはわかんなさそーだけどさこういうの・・あのなー、誰にも言うなよ今の話」
「言わないよ。言うような友達もまだここにはいないし」
「何すかそれ。おねだり? 俺に友達になってほしいってか?」
 宇田川はからかいをこめて片眉をあげた。悠太は、はは、と笑った。



 青葉台学園の教師の質は、以前の学校に比べて格段に良い。どの科目の教師も専門性に長け、熱意があり懇切丁寧だ。悠太は二日目にしてそれを実感していたが、今一つ授業に集中できなかった。ノートだけは機械的に取りながら、意識は左前方の倉嶋志保子へと吸い寄せられてしまう。
「じゃ佐々木、問二を前に出て解いて。それから転入生の、えーと海棠。問三をやってみて」
 教師に指され、悠太は少しドギマギしながら立ち上がった。幸いなことに数学は得意科目だ。可能な限り美しく数式を展開し切ったときにカタルシスをおぼえる自分は、数学オタクなのかもしれないと思う。予習したノートを見ずに黒板に数式を並べ答えを書くと、教師は頷いた。
「問三はそのまま板書してよし。問二のほうは、まー奮闘は認めるけど基本的かつ致命的な間違いがある。誰かわかる人?」
 悠太は席に戻りながらチラッと倉嶋を窺った。彼女はノートを取らず、検分するように悠太の答えを見つめていた。かすかな愉悦のようなものが眼の中に見てとれる。二万人中トップの秀才と自分を一緒にはできないが、数学に悦楽をおぼえるあたりは似たもの同士なのかもしれないと悠太は思った。


 わざわざ他のクラスから「ほら、クラケンに似てる」と見物に来る物好きが何人もいて、転入二日目も落ち着かない一日だった。悠太は感情の波立ちが激しいほうではないが、「クラケン」という単語を、卒業まで聞き続けなければならないのかと思うと、さすがに辟易する。
 放課後、教室の外に出ると「今週美術室の掃除当番だよ」と、見知らぬ男子に声をかけられた。クラスメートにこんな顔がいたかなと首を傾げながら美術室の場所を聞いた。
「新館の三階」
 男子はそれだけ言うと「じゃーね」と背を向けた。美術室に辿り着いてみたが誰も来ていない。おまけにどこを探しても掃除道具が見つからなかった。
「何を探してるの?」
 横手から声をかけられ振り向くと、倉嶋志保子が入口に立っていた。悠太は眩しさに眼を細めた。背後から午後の日差しを浴び、すらりとしたシルエットが切り絵のように浮き上がっている。
「あの、掃除道具を」
「この学園に掃除当番はないわ。掃除は専門業者がするから」
 倉嶋は軽い足取りで悠太に近づくと、手に持っていた折り畳んだ紙を広げて見せた。『大切な話があるので放課後美術室に来てください。海棠』と書かれていた。
「何ですか、これ」
「私の机に入っていたの。黒板で見たあなたの筆跡と違うから悪戯だとすぐわかったけど」
 倉嶋は紙を破ってゴミ箱に捨てた。
「悪趣味で暇な人たちは、健二に似たあなたに私がどんな態度を取るのか、見たくてしょうがないのよ。顔が似ているくらい、どうということもないのに」
「・・・」
「帰りましょう。かつがれたお詫びに車で送るわ。外に迎えが来ているから」
「え、いや、いいです。今日はその・・病院に寄るんで」
「病院?」
「J病院に。母が入院してて」
「じゃあ病院まで送ります。来て」
 倉嶋は先に歩き出した。断ることもできず、悠太は黙って後ろを歩いた。
 正面玄関に迎えにきていたのは、倉嶋の父親の秘書だという二十代後半くらいの男だった。秘書は車寄せに停めたSクラスのベンツの後部座席に二人を乗せた。
「ごめんなさい石塚さん。タクシーで帰ろうと思ったのに、父がまた職権濫用で命令したんでしょう?」
 運転席に乗り込んだ男に倉嶋は言った。
「社長に頼まれなくたっていつでもお送りしますよ。えーとJ病院に寄ればいいんですよね」
「どうもすみません」
 頭を下げた悠太に「いえいえ」と愛想よく笑いながら車を発進させた秘書と、バックミラー越しに眼が合った。この人もクラケンを知っているのだと、その一瞬の表情で悠太は察した。
「J病院・・有名なリハビリテーション病院ね」
 倉嶋が言った。
「あの、母が脳卒中起こして、リハビリしなきゃいけないんで」
「そう、それは大変ね」
 悠太は首を振った。
「根気良く頑張ればかなり回復するらしいから」
「私の祖母も五年前に脳卒中で倒れてリハビリをしたわ。片麻痺と失語症で」
 悠太の母親と症状が同じだ。
「回復したんですか?」
「年齢を考えればめざましい回復をしたんじゃないかしら。今も杖は必要だし、弁舌爽やかとはいかないけれど、生活への支障は少なくなったわ。ところで敬語はやめてくれる?」
「あ、はい」
 倉嶋は苦笑し、秘書は控えめに笑った。悠太はさっきから気になっていたことを聞いた。
「熱がありま・・ある?」
「え?」
「顔が少し赤いから」
 倉嶋は眉を少しあげ、こめかみに手のひらを当てた。
「目ざといのね。顔色はそんなに変わらないはずだけど」
「だから今日は車なんですよ。具合が悪いのにタクシーなんて社長が許しませんからね」
 秘書がちらっと振り向いて言った。
「過保護よ。私は小学生じゃないのに」
「でも志保子さんは熱を出すと少し子供っぽくなりますよね。普段の倍くらいよく喋る」
「ああ・・」
 倉嶋は肩をすくめて笑った。
「熱っぽいときに車に乗ると、高揚してしまうんです。光の反射を強く感じて、流れる景色がキラキラして見えるから」
「でも家に帰って休んだほうが」
「私の発熱は日常茶飯事よ。体調がひどく悪ければ送るなんて言わないわ」
 悠太の遠慮を封じるように倉嶋は言い切った。
「ほら、ここのケヤキ並木は紅葉も綺麗だけど、もう少したてば胸がすくほど鮮やかな新緑になるの」
 倉嶋はシートに背中をすっかり預け、ややだるそうではあるが、顔の表情は生色に溢れている。生まれて初めて電車に乗った子供のようにも見える。「ハンパねえ気取り屋」と彼女を評した宇田川は、こういう表情を知らないのだろうか。
 宇田川のことを考えると、つい「キス」を意識してしまう。倉嶋はどんな反応をしたのかと想像すると、なんだか息苦しくなってしまい、悠太は正面を向いた。
 悠太は今まで一人としかキスをしたことがない。
 野球部の練習に明け暮れていた去年の夏休み、三日間だけ貰えた盆休みに、数人の友達と一緒に海に行った。社交的なイケメンが一人いたせいで女子大生のグループと意気投合し、悠太は三つ上のお姉さんに「坊主頭がかわいい」と気に入られてしまい、誘われるままに彼女の車の中でキスをした。何もかもが初めてだった悠太は我を忘れて興奮し、段々エスカレートしてセックス手前までいったが、「ごめん、ゴムないし」と押しとどめられた。その後何度かメール交換をしたものの、再び会う機会もないまま自然消滅した。後にも先にもそれ以外の、そしてそれ以上の経験は悠太にはない。
「フェルマーの最終定理についてのノンフィクションは読んだ?」
「は?」
 倉嶋の唐突な問いに、悠太は眼を瞬かせた。
「フェルマーの最終定理について、聞いたことはある?」
「いや・・ないと思う、けど」
「十七世紀の数学者ピエール・ド・フェルマーが書き遺した数学の定理よ。彼は命題だけを書き、わざと証明を遺さずにこの世を去ったの。それから三世紀半、地上で最も優れた頭脳の数学者たちが、証明に挑戦しては屈服し続けた。フェルマーの最終定理は数学界における、最も悪名高き超難関と言われたわ」
「はあ・・」
「本を貸すから読んで。あなたなら面白いはずよ」
 長い目尻に微笑みが浮かんだ。小難しい話題をいきなりふられて、戸惑い以外の感情が浮かばない。ずいぶん一方的な人だなあとも思う。だが悠太はこんな表情を誰の顔の上にも見たことがなかった。悠太に向けていながら、好意を示すためでも乞うためでもない、風が吹いて風鈴をひと鳴らししたような微笑。もし自分が彼女の熱烈な崇拝者なら、その表情に特別な感情のカケラを見出そうと躍起になるだろうと思った。




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